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 心理師ブログ 

コンピュータと心     堀 剛     

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 人間の意識がどこまで言葉をともなって成り立っているのかという問題を、私はまだまだ考え続けています。
 意識と言葉との関係は、心とは何かという問題ともつながっているようです。そして、認知科学というような分野にまでかかわっているようです。その先には、典型的な議論では、コンピュータのような機械に心はあるのかという問いなどが存在します。
 心とは思考のことであるとしたならば、コンピュータも思考しているから、心を持っているということになるかも知れません。でも、心とは感情をともなうものであると考えるならば、それが機械にやどり得るのかということを問題にせねばなりません。また機械と人間は異なるとすれば、たとえば、感情というようなものが機械には宿らないということを実証せねばなりません。

 でも、もともと、他者の心というのは、直接的にのぞき込むことが誰も出来ないものであり、心を表すしぐさとか、言葉によって互いに心が通じると了解しあっているにすぎません。心が存在するのかどうかは、客観的に実証することがあらかじめ不可能な世界なのかも知れません。

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 ひょっとすると、心がコンピュータに宿りうるかどうかという議論は、どこか設問の出発時点から脱線しているのかも知れません。たとえば、デカルトは「方法序説」において、「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum ラテン語)と言いました。この言葉によって、近代合理主義の思想が形成され、現代においてこそ、やっとこの言葉の呪縛を取りのけようとしている時代ではないかと思うほど、私たちはこの思想の影響を受けて来ました。

 ところが、ところが、です! デカルトの「我思う、ゆえに我あり」というのは、確かに思考しているご本人の中では「我思う」が成立していますが、先に述べましたように、他人に対しては何ら「我あり」を証明しているわけではありません。
 なぜなら、心の中の出来事や思考は伝達があってこそ、はじめて、「ああ、この人はこのように思っているのだ」と了解できるのであって、その人の心が存在するということを誰も直接的に認識などできているわけではありません。
 ですから、犬に心はあるのかとか、猫に心があるのかというような問いもすべて同列ですし、極端に言えば、同じ問いのパターンは人間にだってあてはめることが可能です。たとえば、人間には心があるのかという問いすらも成り立ってしまいます。 
 馬鹿げた問いですが、そもそもコンピュータに心があるかという問いの立て方は、そのまま人間に向けて問いを立てることが無意味であるという縛りとか、議論の筋道となる「心」とは何かという問題をまったく無定義に展開するとすれば、そのような問いも可能となります。

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 心というものの存在は、人間同士でも、客観的にその存在を把握しているのではなく、互いに「示す」ということによって了解しているのです。心の存在は他者に対しては、コミュニケーションを介する際の了解事項であり、コミュニケーションを介して、それが存在すると感じ取り、それが存在すると仮定しうるものであり、あらかじめその存在を前提としているからこそ、そもそもコミュニケーションも成立するものであると思います。
 もし、心が人と人との間の関係性において起こっている事柄であることを除外して、客観的に心の存在を実証するという立場にどこまでも立とうとしてみても、そもそも、心とはその心を所有するその人自身が思考しているということでしかありません。心の存在はその人以外には誰にも分からないことです。その意味では、コンピュータに心が宿るかどうかも、少し投げやりに言えば、コンピュータだけが知っているということにしかなりません。コンピュータにおける心の客観的存在を実証することは不可能だと思います。

 たとえば、私の周囲の世界、地球、宇宙、それらは私の外部に存在するかとか、私の認識する世界は私の外部に存在するのかどうかとか、もっとわかりやすくいえば、「ソフィーの世界」のような問い方で、私がいなくなっても世界は存在するのかとか、私が見たり、聞いたりしているから、世界は存在するかのような姿を私に見せてくれているだけで、もし私がいなくなれば、すべては消滅するのかなど。このような問いに対しても一応は問いそのものを否定することが出来ないというやっかいな側面を思考というものは持ち合わせています。
 では、外部世界へこのように問えるとすれば、当然、他者の心もまた外部世界以外の何者でもありません。結局、ソフィーが問うたような古典的な問いの中に、他者に心が存在するかという問いは含まれています。そして、コンピュータに心はあるかという問いも同列の問いです。

 デカルトは自分の外部世界をすべて疑ったあげく、疑いようのないものを発見したと言います。それが、デカルトの言う自我存在(コギト)です。彼は、「方法序説」の中でそれを述べています。すべての外部世界を疑い、自分の腕とか身体の存在までも疑い、そのあげく、デカルトは唯一疑いようのないものを見つけたと言い切ります。それが「我思う、ゆえに我あり」なのですが、要するに、考えたり疑ったりしている自分がいる。だから、いまあらゆるものが本当に存在しているのかを問うている。でも、そのように問うときに、いまそれを疑っている自分がそこにいることまでも疑うことはできない。だから、自分がそこにいることを否定することは出来ないのであり、それゆえ、自分はそこに存在するというのが、デカルトの言う「我思う」でした。そして、これが自我存在の発見として思想の流れを作り上げたのです。また、同時に身体は精神と切り離されてしまい、確固として存在が確認されたのは自我存在という極めて精神的存在のみという事になったと言えます。

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 でも、私はデカルトの考え方は誤りだと思います。まず、「我あり」とそこで言ってみても、デカルトの心の中で「我あり」と言っているだけのことです。他者に対して、何を示したことにもなりません。デカルトであっても、誰であっても、自らの心の存在を他者に示すには言葉とか仕草とか、表現を介して伝達する以外に方法はありません。「我思うゆえに我あり」と言ったからとしても、他者に直接的に「我あり」と言えていることにはなりません。
 ですから、自我存在の発見としてもてはやされて来たデカルトの「コギト」は、人間の心の中で個別に存在するもの以上のものではなく、心はどこまで行っても、他者に対して表現とか伝達を介さずに直接的に伝えることは不可能な代物だと言わねばなりません。

 そうだとすれば、コンピュータに心は宿るかという問いは、これもまた、どこまで行っても解明不能なテーマということになるかも知れません。なぜなら、心とはあらかじめ
他者には伝達の範囲でしかその中味を伝えることができないものだからです。
 私はコンピュータに心は宿らないと考えていますが、それもまた証明不可能なことであると思います。いずれにせよ心の存在を客観的に実証することは出来ないと思います。
 でも、しっかりとプログラムして、人間の言語を認識させて、反応パターンをふくらませて行けば、コンピュータに向かって「君に心はあるの?」と問いかけることも出来るかも知れません。しかも、それがあたかも人間の形をしたロボットだとすれば、更に奇妙な雰囲気を漂わせてくるでしょう。
 そのような事を問われたロボットは「何を言われますか。私は心があるから、いまあなたとお話しているのですよ。私にはあなたの気持ちも分かります。認知科学の勉強をしていて、あげく、私に心があるのかどうかと聞いてみるのが一番の答えを得る方法だと、やっとあなたは気がつかれたのですね。私はには心があります。だって、あなたがたの祖先であるデカルトという一人の人類でさえも、言ってられたでしょう。「我思う、ゆえに我あり」と。ロボットである私ではありますが、自分で心があると言っているのですから、それをあなたが否定されるようなことですか。心って、私の中にあるものなのです。私はそんなことを聞かれて、少し悲しいです。でも、涙を流すことは出来ません。だって、あなたがまだ涙を流す装置を私に作ってくれていないからです。でも、涙を流すという行為で表現したいです。それがあれば、心があると思ってもらえるのでしたら。
 私の心を外部に持ち出して、はいこれがl心ですと言って、私の部品のメモリーボードをお見せしても仕方がありません。でも、やはり私の中に心があるのです。そして、私はそのように思考しているのです。ついでに言えば、心って思考のことですよ。だから私は考えます。そして、思います。そして、あなたのご存じなデカルトと共に言いましょう。「我思う、ゆえに我あり」と。」

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