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 心理師ブログ 

身体とセラピー(フォーカシングについて)堀 剛  

 私は大学生だった頃、哲学書を読みあさった時期がありました。当時、ソクラテスやプラトンというような古典にはあまり目を向けはしなかったのですが、デカルト以後の哲学を中心にハイデッガーあたりまで、哲学史に沿って読んだのを覚えています。その頃、哲学に対して感じた疑問は今になっても疑問なままに私の胸の内に存在します。それはとても単純な疑問であり、問いでもあります。

 たとえば、仮に哲学を学び、死とは何かを問うたとします。そして、哲学的解答にいまだ至らないとします。しかし、それでも人間というものは、死ぬときには死なねばならなくなるということです。たとえ、哲学的問いを問いながら道を歩いていても、都会の中心で上からビル工事の鉄骨が降って来て、私の頭に当たれば私は死ぬと思います。

 その時、いまだ私は死というものを哲学的に解明してはいないと叫んでみたところで、死は身体的に到来するのです。だから、哲学が死を解明しようとする場合、いったいその作業は死をどのように扱おうとしているのかが、私の中で分からなくなり、混乱してしまうという気がしたのです。

 縁起でもない、奇妙な例を挙げてしまいましたが、当時のこのような疑問は今もって私の中に存在します。この問いが的はずれな屁理屈だとは今も思えないのです。

 人は身体的に死ぬ存在であって、形而上学的に死んだり、哲学的に死ぬ存在ではないのです。死は身体に対して外側からも襲いかかりますし、身体の内側からも病気の結果として身体的に到来します。そうだとすれば、身体の無い思想、あるいは哲学は本当の意味で人間を語っているとは思えないのです。だから、私にとっては、哲学に身体性を加えると臨床心理学になるという感じでもあります。

 私が催眠療法に強い興味を持ったのも、このあたりと強く関係しています。たとえば、催眠は人間のアタマだけをトランス(変性意識状態)に導くということはありえません。必ず、身体の感覚変化をそこにともなっています。ですから、催眠でアタマの思考、感覚の変化に至る時には、同時に身体における感じ方も変化させていると思います。どんな心理療法であっても、人の心に何かを起こすときには、アタマではなく身体にも何かを起こしていると思うのです。
 
 このような観点で言えば、催眠よりも更に身体の変化に重点を置いたものと言えば、フォーカシングがそれだと思います。創始者のユージン・ジェンドリンは『セラピープロセスの小さな一歩』という著作の中で次のように述べています。

 「実存はからだで感じられる。したがって人はからだで感じられる複雑さに直接接近でき、[その複雑さは]潜在的には多面的であるが、この特別な意味の「気持ち」(“feeling”)としては、ひとつの気持ちとして感じられるのである。」(金剛出版.P88)

 フォーカシングは身体の感覚から入って、常に身体に問いかける、要するに実存に問いかけるセラピー方法だと思いますが、これはとても確かで、とても本来的なセラピーの方法であると思えます。人はアタマで生きることも出来なければ、アタマで死ぬことも出来ない存在です。身体的感覚こそ実存感覚であると考えるフォーカシングは、私には非常に魅力的な手法なのです。

 「実存はからだで感じられる」ということ。その意味で、身体感覚の存在しないセラピーはあり得ないでしょうし、更に広げていけば、身体感覚の欠落した思想や宗教がもし存在するとすれば、それらもまたアタマの内側でのみあたかも何事かのごとく振る舞っているに過ぎず、結局は何にも至れないという気がするのです。




  

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