風 景
純銀もざいく
山 村 暮 鳥
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。
この詩は、山村暮鳥『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』(1915(大正4)年、人魚詩社刊)に収録されたものである。大正3年5月から4年6月までの1年余りの間に暮鳥が発表した詩35篇と序詩1篇からなる第2詩集である。山村暮鳥(やまむらぼちょう、1884-1924年)について私はさほど詳しいわけではないが、キリスト教牧師であったということで、なんとなく親近感を持って詩を読んだことがある。
ところで、暮鳥の詩を今回ご紹介するのは、この詩がとても単純な言葉の繰り返しでありながら、実は催眠でいうところのイメージへの誘導性を持っていると思うからだ。
私の催眠心理療法研究室「ヒプノワーク四国」へお出でいただく方の中には、自分はどうしてもイメージを描くのが苦手であると思いこんでいるような方もお見えになる。
そんな方には、まず私は「あなたは小説などはお読みになりますか」と尋ねることにしている。小説は言葉のみで漫画でもなければアニメでもない。絵は読み手が描かねばならない。でも、小説を読むときにはどんな人でも少なからずイメージを描いているのである。それぞれに主人公の顔、姿を想像し、作り上げているのである。小説を読む人ならば、イメージを描けないということはまず無いと思う。
でも、確かに小説も読まない人だって来られる。(人のことは言えない。私こそ小説嫌いな人間である。)でも、イメージの世界というのは、単純な世界でもある。難しく考えることはない。たとえば、海辺にたたずんでいるのを想像してみて下さいと催眠療法士が言う時には、しっかりと海辺が見えていなくとも何ら問題ない。要するに、気分なのだ。海辺にたたずんでいるという気分になってもらえれば良いのだ。逆に言えば、いくら海辺が見えても、その気分、海辺でリラックスしてという「気分」が欠落したままで、海の風景だけが見えたところで何の意味もないのだ。
山村暮鳥のこの詩はとても単純であるが、あれこれ理屈をつけないで素直な気持ちで読んでみると、不思議なイメージの世界へ誘われていく。まるで催眠のイメージ誘導のようである。
なぜ暮鳥がこのような詩を書いたのか、それはそれなりの彼の作品体系の中での位置づけがあるのだろう。だが、この詩集が出版されたのは1915(大正4)年であり、日本の催眠の歴史の不幸な事件へとつながった東京帝国大学の福来友吉博士による 『透視と念写』(宝文館 1913年)が出版された頃である。モダニズムとしての催眠に世間が目を向けていた頃ではないのか。
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