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大阪 心理療法、催眠療法、オンライン・カウンセリング

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 心理師ブログ 

言葉と意識        堀 剛       

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 言葉無しで人は思考できるのでしょうか。最近、こんなことをまじめに考えています。言葉は人間が人間として誕生した時、それは猿から人間へ進化したということでも良いのですが、その過程で言葉が生まれたのだとすると、では、言葉を持つ以前には思考はあり得たのか? こんなことが気になります。

 この問いへの答えとしては、言葉無しでも悲しいものは悲しいし、辛いものは辛い。いちいち言葉など要らないと言うことにつきるのかも知れません。

 催眠を含めたイメージ療法も、クライアントがある時、いきなりイメージを通して気づきを得ることがおこると、急にそれまでの問題が解けていくことが起こったりします。もちろん、誘導に言葉を使ってはいますが、クライアントの脳裏には言葉よりもイメージができあがっています。ですから、言葉以上にイメージは人を癒すものだと思います。

 言葉の無い世界、言葉なしの思考、そんなものはどこまで可能なのか?たとえば、歌は言葉を使うので除外するとしても、一般に音楽は言葉の無いイメージだとも言えるでしょう。また、絵画も言葉のないイメージだと言えます。ですから、言葉はイメージのあとから出来たものだという気がするのです。

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 新約聖書のヨハネ福音書の冒頭に「はじめに言葉があった」とあり、旧約聖書の創世記には神の言葉によって世界が創造されたという神話が記されています。これはヨーロッパのロゴス中心主義の思想を根底から形成させた一つの支柱となったのではないかと思います。そして、近代にはデカルト的に二元論が出現し、精神と肉体の分離が当然のごとく考えられていったのだろうと思います。

 ところで、成瀬悟策著『動作のこころ』(誠信書房)には、次のように書かれています。
 「これまで述べてきた心身一体・一元的な活動としての動作という現象は、生理学なり医学の分野においても、心理学なり哲学のそれにおいても、それ自体としては従来全く注意を払われることがなかった。日常の現実において、これなしには生きられないほど生活と密接し、きわめて重要な役割を果たしているこの現象が、これほどどの分野においても注目されず、放置されっぱなしであったということは、言語に絶するほどの驚きである。」

 もう21世紀に入って8年目を迎えますが、21世紀の思想は身体を抜きにしてはあり得ないかも知れません。そして、人間が言葉とか思考、言語を至上のものと思っていた時代は終わりに来たのはないでしょうか。
 新しい思想は、身体的に感じる世界の素朴さを捉えなおそうとするものであり、そこでは言語を超えたイメージの世界もまた大きなテーマとなってくると思います。

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 話をもとに戻しますが、言語以前の認知とはどのようなものなのか?これを具体的に考えてみたいと思っています。
 言語以前にも認知が存在するのは動物が言語なしで思考判断をおこなっていることから明らかだと思います。あるいは「言語」とか「言葉」という語の定義を変更するならば、彼らも言語や言葉を使用していると言えてしまうかも知れません。たとえば、犬がしっぽを振る動作を言語だと言えるとすれば、犬もまた言語を使用していると言えるかも知れません。しかし、言語を発するという発声メカニズム備えた人間が使う言語の世界を前提に考えるならば、人間にとって、言語なしの認知とはいかなるものなのでしょうか。

 言語(内言)によってのみ思考が導かれると言い切ることは出来ないでしょうし、あたかも言語を保持していることは、言語が無いよりも遙かに高次であるというように信じていることは本当に正しいのでしょうか。これを疑ってかかったことが無かったのは私ひとりなのでしょうか。

 更に、疑問は広がるばかりです。たとえば、鳥の群れの先頭にいる一羽が方位を変化させるとき、鳥の群れはほとんど同時にそれに従うのを見たことがあります。この意思伝達には言語は伴っていないと思いますが、いったい彼らはどのようにして意思を疎通させるのでしょうか。
 逆に、ひょっとすれば、言語の無い世界を忘れたのは人間の方ではないのかとさえ思うのです。

 私は認知科学や認知心理学にはほとんど無学ですので、ご存じの方からすれば、私の問いは既に解明されたものばかりかも知れません。

 ただ、言語はイメージと切断されたものでないことは確かです。なぜなら、言語によって催眠誘導が可能であり、言語によってイメージが喚起されるからです。しかし、言語のないイメージは確実に存在します。既に述べましたが、音楽によるイメージもあれば、絵画によるイメージもあるからです。ですから、言語は常にイメージと密接に並立するとまでは言えません。

 このような事を考えているのは、実は催眠療法を行っていますと、たまにイメージの沸かない方もおられますし、そのような方をカタルシス(浄化)へ近づけるように手助けするにはどうすれば良いかと頭を抱えることがあるからです。
 少し、未整理なまま長くなりましたが、少し考えて行きたいと思います。

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 このところ、言葉とイメージの関係について考えてみましたが、有斐閣の「心理学」P.292に次のような事が書かれています。「ハンフリー Humphrey,1986 は、人間が進化の過程で「内なる目」として意識を獲得し、自分自身の脳の状態を意識的な心の状態として理解できるようになったと考えている。」
 
 私が考えている言葉のないイメージというのはハンフリーがいう「意識」に相当するのかも知れません。しかし、「意識」というものは言語無しで可能なものなのでしょうか。このような議論を進めるためには、先に「意識」というものの定義を明確にしておかねばならないようです。そうでないと混乱してしまいそうですし、現に私自身が混線、混乱しているかも知れません

 また、次のようにも書かれています。「近年の研究で類人猿と人間の連続性が強調されるようになったものの、類人猿から人間への飛躍は大きかった。ハンフリーはその飛躍の鍵が自己意識にあったと考える。」
 うぐ、、、不勉強なので、私はここで言われている「自己意識」なるものが言語を介在させるものを言っているのかどうかすら分からなくなって来ました。
 
 でも、次のような事も書かれています。 
p.286 「大型類人猿と人が分かれる前の段階で洞察力が獲得され、他者(他の個体)が心の中で思い描いたり把握したりしている「世界らしきもの」を推測することができるようになり、知的行動が一大飛躍をとげた。」

 すると、どうやら人類と大型類人猿の分岐する過渡期には、世界意識が芽生えるかどうかという瀬戸際にあったと考えられているようです。それは他者概念の芽生えが起こるかどうかという過渡期でもあったのでしょう。しかし、そのとき思考において言語はどのように介在したのでしょうか?いや、一般の学説はこの点はどうなっているのでしょうか。私には分からないことだらけです。

 このテーマはもう少し私自身が勉強しながら考える必要がありそうです。また、意識、直感、思惟、感情など様々な言葉の定義づけも明確にする必要がありそうです。

 こんなことを考えるととても楽しい気分になります。私にはどことなく神秘的な世界のように思えたりしますが、皆さんはどうでしょうか。
                    了




  


 

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